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林輝太郎さんを悼む
〜相場をこよなく愛した人
市場経済研究所 鍋島 高明
 林輝太郎氏のお別れ会の顔触れはいつもの商品先物(CX)業界の集まりとはガラリと違っていた。ホテルニューオータニの鳳凰の間に150人を超す人が集まったが、ほとんどが一般投資家であったからだ。林さんのファンが一堂に会した感が強く、業界人は数名にとどまっていた。
 本紙オーナーの米良周氏の他界から10日を経ず、後を追うように逝かれたのには因縁めいたものを感じる。
 米良氏は日経新聞記者時代から林さんと親交があり、米良氏の棺に納められた2冊の著作の一冊「商品先物取引の手引」は林さんの強い勧めに応じて書き上げたものだからだ。ちなみにこの著作にはCX界の長老、木原大輔氏が先刻、名著の折り紙をつけておられる傑作である。
 林さんは初め、商品先物の仲買人、隆昌産業で営業部長をやっておられた。そのころ日経新聞の相場雑観欄には毎日のように林さんの名前が出たものだ。林さんの豊富な情報量を求めて新聞記者は日経に限らず、各紙とも隆昌に押し寄せた。林さんの明確なコメントは相場記者の渇望するネタであった。
 お昼に刷り上がる日経夕刊の早版にのる林さんのコメントが後場の相場の手掛かりとなる。各仲買店の店頭には早版が積み上げられ投資家は争って雑観欄に食い入った。
 そのころ大衆筋と呼ばれる大手仲買には相場の変動要因を解説できる人はほとんどいなかった。彼等は顧客の注文をそのまま場にさらかす、店で向かうか、するだけで相場観など持ち合わせていなくてもつとまった時代である。
 市場内部要因(取組など)についてはベテランの場立ちに取材した。
 林さんはやがて独立してヤマハ通商を創業、社長に就任する。昭和37年のことだ。
 ヤマハ通商のマークは「H・K」であった。Hは林さん、Kは共同経営者の金清勝応さんの頭文字から採った。林さんは陸軍士官学校に学び、金清さんは海軍兵学校、陸士、海兵の両俊才による仲買店出現で業界の注目を集めるが、仲買店経営にはまた別個の才が必要なようで、ヤマハ通商はほどなく閉鎖されてしまう。
 林さんは人形町で林投資経済研究所を立ち上げ、投資顧問業に乗り出す。ここで林さんは天分を開花させる。
 独特の罫線観を保ち、投資家をいかに儲けさせるかの一点に絞って、相場に取り組み相談に応じる。儲けたい人ばかりではない。損をしてしまったが、相場でなんとか仇を討ちたい人々の駆け込み寺の様相を呈する。時折、事務所を訪れると、資料の山に埋まって、投資家の長電話に辛抱強く対応している姿が忘れがたい。行儀を改めようとしないかつての同業者に対する辛辣な言葉も。
 書店に行くと「林輝太郎コーナー」がある。それほど林さんは投資家に人気があった。遺作となったのが「相場の道」で「松辰遺稿・現代語訳注」のサブタイトルが付いている。明治時代の大相場師、松村辰次郎の著作を林さんが現代人にも読めるように訳し、注釈を加えたものである。その一節 。
 「投げと踏みが奥の手などというと素人は笑うかもしれないが、実は投げと踏みを実行するか否か、できるか否かが、素人玄人の分かれ道なのである。どんな人でも神様ではないのだから、失敗ということが必ずある。しまったと思ったら、サッと手を引くことだ」
 林さんは、今なぜ松辰を取り上げるか、についてこう述べている。
 「明治以降、大相場師で本を書いたのは鈴木隆と松村辰次郎しかいないのだ。読めば分かるが、大相場師は確固たる信念と旺盛な行動力を持ち、優秀な売買技法を身につけている相場で成功しようという意欲を持っているひとには大いに参考になるはずだ」
 林さんの遺業は次男知之氏に受け継がれる。