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105年ぶりの東京商品取引所 ─先人たちの思いとは
市場経済研究所 鍋島 高明
 東京工業品取引所が来年2月を期して東京商品取引所に商号を変更するという。東京穀物商品取引所から農産物4品を継承するのに伴う措置である。振り返ると、昭和59年に金、繊維、ゴムの3取引所合併で東工取が誕生する際にも東京商品取引所案があったが、東穀取サイドから異論が出て、東工取に落ち着いた経緯がある。工業品という言葉は農産物に対応するものだろうが、発足当初からなじめない造語のまま、今日に至った感じである。スーパー大辞林にも採用されずに、工業品という官製造語は消滅する。
 東京商品取引所の登場を一番喜んでいるのは「天下の雨敬」雨宮敬次郎であろう。東京商品は雨敬が理事長時代に営業不振に陥り、東京米穀取引所に吸収合併された。明治41(1908)年のことで、105年ぶりの東京商品取引所の復活である。
 かつての東京商品取引所は明治27年に蛎殻町で誕生した。当時は70余名の仲買人がいて、10部門(塩、砂糖、石油、植物油、肥料、綿布、綿花、銅、雑穀)を擁し、堂々たる陣立てであった。しかし、同じ蛎殻町では先輩格の東京米穀取引所が米屋町の顔として殷賑を極めていたので、東京商品取引所のかげは薄かった。スタート当初は塩が最大の人気商品だったが、明治39年に専売制が実施されたため、中止のやむなきに至り、中心は大麦、綿糸、生糸に移った。
 初代理事長が銀林綱男で、埼玉県知事から商品先物(CX)界に入り、2代目が渋沢喜作。渋沢栄一のいとこに当たり、2人は御神酒徳利と呼ばれた。喜作は相場が大好きで、栄一が尻ぬぐいをして歩いた。彰義隊の隊長をつとめるほどの武人であったが、相場は曲がってばかりいた。相場師としては大きな成果はないが、市場の運営には長けていた。深川の正米問屋の組合ができた時、初代総行事(理事長)に就任した。石田朗氏が書いている。
 「喜作は現物商業だけでなく、投機市場についても、豊富な経験をもっており、その表裏に通じていた。そ



れ故理事長になると、運営がきわめて適切であったので、市場はすこぶる活況を呈し、彼が在任中がこの取引所の最盛期となった」(「戦前の理事長」)
 第3代理事長となる雨敬は、投機師としては天下一品で、中江兆民なども、岩崎弥太郎、古河市兵衛とともに雨敬を3大商傑にあげているほど。だが、東京商品取引所の運営では手こずった。雨敬を弁護すれば、当時、体調を崩し、死期が迫っていたので、投げ出したかったのかも知れない。
 仲買人の身元保証金が米穀7000円に対し、商品は4000円、株価は米穀が1株90円に対し、商品は45円と半値でしかなかった。合併比率2対1のところを3対2となったのは雨敬の貫禄に敬意を表したものだろうか。合併に際しては米穀の青木正太郎理事長が東米商の理事長、商品の菊島生宣専務が東米商の専務、そして雨敬は東米商の相談役となるが、ほどなく他界する。
 こうして東京商品取引所は東京米穀取引所の軍門に降るが、米の圧倒的人気に気押されて商品は苦戦を強いられた。根岸真三郎の「杉之森市場編年史」は伝えている。
 「値動期の荒い米の投機取引全盛時代のこととて大樹の下に植物が繁茂せざるが如く、次第に注文の大半は米穀取引に吸収、圧倒され、漸減の一途をたどり、遂に商品の取引は皆無という悲運をなめるに至った」
 事実上、商品側の取引は消えてしまうが、大正5年、理事長に就任した指田義雄が総合商品取引所実現を目指して、第2部市場(綿糸布)を堀留に、第3部市場(大豆粕など)を佐賀町に開設、さらに第4部市場(砂糖)を小網町、横浜の生糸取引所も株の買収によって傘下に押さえ込もうとするなど積極的な経営で商品先物の全盛期を現出させた。
 指田義雄が理想として掲げた総合商品取引所は来年春、東京商品取引所のもとに実現するが、皮肉なことに米は含まれない。指田は米を中心に総合商品取引所を構築しようとしたが、21世紀においては米は特定商品の名のもとに敬して遠ざけられた。雨敬や指田は今回の市場統合をどうみているのだろうか。
 雨敬「蛎殻町がもぬけの殻とはどういうことじゃ。100年前の東京商品取引所を称するより『東京コメックス』がよかないか。コメ抜きのコメックスで若者を呼び込むのじゃ。大阪では堂島取引所に呼称変更する案も出ているらしいぞ」
 指田「コメは関西へ、コメ以外は東京へというのもよく分からんな。コメはそんなに恐いのかい。全農さんとかかわりたくないのかね。全農がコメ市場に見向きもしないのは、先物市場を恐がっているからだよ。先物市場の神髄を知っているから恐いのだよ。政治銘柄という名のもとに、皆米を恐がってどうする。米はきっと化ける。大化けする」
 かく宣う指田義雄とは埼玉県選出の衆議院議員で政友会の院内総務のかたわら、東米商の理事長を10年つとめ、東京商業会議所会頭を兼任、「我国ノ経済界ハ東洋経済界ノ灯明台ナリ。ソノ水先案内人トナリ…」と日本のCX市場をロンドンの写真相場から脱却させようとした気骨の士であった。