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寺町博は悲しんだ 〜鎧橋周辺に莫大な散財
市場経済研究所 鍋島 高明
 寺町博氏が死んだ。88歳の大往生だった。フジフューチャーズのオーナーであり、相場師として一時代を築いた。かつてジャーナリストの椰野(なぎの)順三氏は「日本経済黒幕の系譜」の中で、寺町氏についてこう述べている。
 「自ら創業した日本トムソン社長の座からの追放、脱税、仕手戦、二度目の創業であるTHKの株価日本一…。寺町博は発明家であり、生涯二度まで東証一部上場企業をゼロから起業した技術系の敏腕経営者である。その業績からいえば、本田宗一郎やソニーの井深大と並ぶ名経営者と称えられても不思議はないが、寺町を誰も両氏と比肩しない。この人の場合、相場好きは『不治の病』と言われ、それが人物像を曇らせているのだ」
 先年、寺町氏を新川の事務所に訪ねたことがある。立会中は来客を断っていると聞いていたので、多分4時前であったと思う。寺町氏は遅い昼食をとっておられた。
 待つ間に会長室に掲げられている表彰状などを見た。日本発明振興協会の発明大賞など数々の賞状が並んでいた。相場の罫線でも貼ってあるか、と思ったが、影も形もなかった。相場師の部屋というよりは学者の部屋であった。平成3年には紫綬褒章も受章している。中でも目を引いたのは美摩夫人の写真である。ふくよかな美形で、歌手で女優の李香蘭そっくり。あとでそのことを寺町氏に言うと、氏はニンマリと微笑んだ。その時の寺町氏の横顔は、とても日本経済黒幕の系譜に入る人ではないように思えた。好々爺に映った。
 寺町氏が20年前、フジフューチャーズ(当時は富士商品)の株を引き受けたのは、フジの株式上場を目論んでのことだった。日本トムソン、THKに続く生涯3社目の上場企業を作ってみせると先物業界にオーナーとして乗り込んだ。その思惑は、ほどなく先物業界を襲った大津波でもろくも破綻したが、寺町氏と先物業界との縁は半世紀近くも前にさかのぼる。
 みずから創業した日本トムソン社長時代に生糸や小豆をやって大損した。岡地をはじめ十数社の取引業者に玉をはわしていたというから立派な仕手である。担保に入れてある日本トムソンの株が追証攻めで仕切られては大変と、岡地の岡地中道社長に頼み込んで、岡地に肩替わりしてもらう。岡地は日本トムソンの株を240万株持つこととなり、スウェーデンのSKFに次いで国内筆頭株主に踊り出る。
 昭和45年7月、寺町は社長を辞任、岡地が社長に担がれるが、「ベアリングのことは全く知らないから」といって辞退、大同製鋼の中塚常務が日本トムソンの社長に就任、岡地は専務になる。岡地が社長を辞退したのは、週刊誌が「上場会社の社長が相場で損をして、代わりに商品取引員の社長が乗り込んできた。前代未聞の珍事」などと書いたのでいや気が差したと語っている。
 当時は商品先物業界の「客殺し」が社会問題になっているさ中で、岡地が日本トムソンを乗っ取ったとなると、格好の週刊誌ネタにされる。それを避けたのだった。
 寺町氏にはこの後も敗北の記録が多い。小さく勝って大きく負ける、典型的な素人相場師ともいえる。だが、その負けっぷりが尋常ではない。
 平成5年、寺町氏は乾繭相場で100億円を超す巨損を出した。そのころの寺町氏はTHKの社長であり、フジフューチャーズの筆頭株主として名乗り出ている。寺町氏の敗退濃厚を伝えて、THKの株価が暴落、経営不安がつのる。週刊東洋経済が書いた。
 「90年3月には4万4000円という当時の株価日本一に輝いた銘柄が1000円割れ寸前。株式分割で公開時の1株が4.5株に増えていることを勘案しても高値から8分の1という水準だ。THK2万人の株主へ裏切り行為」
 資産1000億円と称された寺町氏ではあったが、乾繭相場の暴落はこたえた。仕手戦が終盤を迎えたある休日、寺町氏は夫人を伴って前橋乾繭取引所理事のN氏宅を訪れ、規制解除を訴えた。寺町氏にすれば、市場振興を願う取引所の意向に沿って買い玉を膨らましていったら規制強化で動きが取れなくなってしまったのだ。
 この件に至ると、井伏鱒二の名作「山椒魚」が思い浮かぶ。岩屋に棲んで王様気取りの山椒魚が気付いたら体が成長していて頭が出口につかえ外に出られなくなっていた。仲間はいつの間にか外へ出てしまったが、お人好しの山椒魚は一人、取り残され、岩屋の暗黒の世界で暮らすしかない─
 小説「山椒魚」の書き出しは有名な「山椒魚は悲しんだ」で始まる。筆者は、かつて寺町氏の小伝をまとめた時、「寺町博は悲しんだ」と見出しに書いた。正月の賀詞交歓会の時など、寺町氏が一人悄然とグラスを持っている姿を見るにつけ、寺町氏は無類の相場好きとはいえ、先物業者とは水が合わないのかな、という感じを持った。
 寺町氏が蛎殻町、兜町で散じたカネは測り知れない。ベアリングの発明で稼いだ莫大なカネを惜しむ気もなく鎧橋周辺の投機街にバラまいた。寺町氏は晩年、デノミ論を唱え、デノミによってアングラマネーをあぶり出し、日本経済を活性化するんだと張り切っていた。各方面に論文を送り付けるが、全然、反応がないと口惜しがっていた。孤独な生涯であった。 合掌