前号へ  次号へ               


平成版東京商品取引所の指導者へ
市場経済研究所 鍋島 高明
 来年2月、東京穀物商品取引所が解体されるのと軌を一にして、東に東京商品取引所、西に大阪堂島商品取引所が誕生する。誕生というのが少々オーバーだとすれば、東穀の上場商品を分割、継承するのを機に改称する。
 両取引所の名前は100年前に逆戻りする。そのころ東京商品取引所を率いる雨宮敬次郎(雨敬)という怪物がいた。
 東京商品取引所の人気商品は塩であったが、明治39年専売制になったため、同41年には青木正太郎が理事長を努める日々活況のお米の取引所に合併を申し入れるしか手はなかった。鬼才雨敬をもってしても「出来高」の重みには勝てなかった。
 雨敬をよく知る朝日新聞の奥村千太郎記者が、その横顔を描いている。
 「かの容貌魁偉にして、羽織はもちろん着物まで、いつも黒羽二重ずくめのいでたちで、築地の事務所では直径三、四尺もある大火鉢を前に、毛剃九右衛門でも持ちそうな太いきせるをはたきつつ、客と相対するさまは、戦国時代なら一国一城の主ともなる英雄豪傑は、確かにこういう風采の人物であったろうと思わせた」
 明治の奇才、中江兆民が遺稿集「一年有半」の中で近代の非凡人を精選し、藤田東湖以下、31人を挙げているが、その1人に雨敬を挙げた点にその異彩振りが推し測れる。稀代の大投機師、雨敬の凄さを奥村記者はこう述べている。
 「帝国ホテルへ行って、こんな水くさい洋食が食えるか、塩ブリを出せと怒鳴ってはばからないのが雨敬氏の天真流露な面目であり、言うことには飾り気がなくても、すこぶる傾聴に値する話が多かった。同氏によると、われらの常住坐臥、一挙一動がことごとく思惑を行いつつあるのだ。そうして思惑にかけては自分は天下の第一人者だ。何人にも譲らないとの信念を堂々と告白し、鉄道株を買うのも、炭鉱株を買うのも、天下国家のためだと揚言するのであった」
 雨敬は日ごろから広言してやまない。
 「わしは相場をやるといっても、日々の高下などは眼中にない。5年か10年に1度、財産の乗り換えをする。これが一番大きい金儲けの要訣じゃ」。
 具体的には景気がよくなって株価が高くなると、地味な公社債へ乗り換え、不況になって株価が下がってくると公社債を売り放って株に乗り換える。
 雨敬は「投機の魔術師」と呼ばれ、成金と破局を繰り返したが、時代順にみていくと、その勝負師人生は7期に分かれる。第1期は横浜のドル相場で大もうけ、第2期は秩禄公債(暴落した公債の買占め)、第3期は地所(軽井沢の開拓)、第4期は鉄道株、第5期は製粉事業(小名木川に製粉工場を建設し、小麦粉をウラジオストックに輸出し巨利を博した)、第6期は製鉄事業(東京鋳鉄合資会社を作って国産の鉄管を供給)、第7期は電鉄事業京浜電鉄社長、川越鉄道、江之島鉄道にもからんだ)。
 このほか横浜時代に蚕糸の思惑で勇名を馳せた。鉄管事業では、東京市へ不良鉄管を納入したとの疑惑で収監されるという事件も起こした。また鉄道事業では東京市街鉄道(街鉄)の経営に当たり、乗車賃の三銭均一制を実施したことで知られる。
 東穀取元理事長、石田朗氏の労作「戦前の理事長」も雨敬の足跡を称えているが、そこに登場する面々が経済界の大立物揃いである点に、改めて驚かされる。かつて取引所の理事長職は経済人の垂涎のポストであった。
 東京穀物商品取引所理事長のイスを巡る争奪戦で今日まで語り草になっているのが、藤田謙一と窪田四郎の争い。大正時代のことだが、総合取引所を実現させた指田義雄東米理事長(第4代東商会頭)が他界してその後任に名乗りを上げたのが第5代東商会頭をつとめる藤田謙一。
 「取引員連が金にガツガツしているのに乗じて十四、五万円がところをまず仲買連に融資しておいて理事長運動をおっ始めた。取引員連や取引所の重役連は意気地なくも藤田君の薬篭中にはまり、藤田君を理事長に推薦した。ところが、商工省の副島千八商務局長が取引員と資金関係にあるものは取引所法何条によって許可まかりならぬとガンと食らわしたから藤田君は歯ぎしりしながら……。その後性懲りもなく窪田君に対抗して理事長争いの小ギタナイ運動を続けたが、窪田君が先回りして藤田君の親分格の郷誠之助男爵のところへ仲裁に持ち込み、たくみに藤田君の裏をかいたので藤田老は入れ歯をかんで口惜しがったが、……昭和2年6月には茨城浪人窪田四郎君が理事長を乗っ取ってしまった」(ビジネス・センター)
 窪田は内田信也の実兄で日魯漁業社長などを努めた。
 平成版の東京商品取引所の運営に当たる面々は、先輩たちの活躍を記録した前出の「戦前の理事長」、根岸真三郎著「杉ノ森市場編年史」、時事新報社編「ビジネス・センター」などは目を通してもらいたい。歴史の積み重ねが現在であり、それが未来につながっていくのだから。栄光と恥辱の歴史から目をそむけて、21世紀の市場作りはできないであろう。
 雨敬のような傑物がこの町で市場振興に励んでいたことを知れば、新生東京コメクッスのリーダーたる者、おのずから取り組む姿勢が熱気をはらんでくるに違いない。
 以上は老残記者の老婆心から出た老いの繰り言で他意はない。