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4・28は主権の一部を放棄した日でもある
沼野 龍男
 日本と連合国の間で第2次大戦を終結させた所謂「サンフランシスコ平和条約」が、1951年9月8日アメリカなど48ヵ国との間で調印され、翌52年4月28日発効した。但し、中国は、アメリカが中華民国(現台湾)を、イギリスが中華人民共和国を承認していたため、太平洋戦争の最大の被害国でありながらこの会議には招待されなかった。又、ソ連、チェコスロバキア、ポーランドは会議には参加したが条約には署名しなかった。したがって、ソ連、中国などとは別途敗戦処理交渉が行われることになった。見切り発車にはアメリカの強い思惑があった。
 中国とはその後約20年を経て、1972年9月29日「日中共同声明」で日中間の戦争状態の終結と国交正常化が実現した。「日本国は戦争を通じて中国国民に重大な被害を与えたことについての責任を痛感し深く反省すること」などが記されている。
 日本のアジア進出の中で、植民地として統治してきた朝鮮、台湾では、日本文化の輸入が強制され、神道の普及や日本語教育が徹底された。4・28はこれら日本人に同化された人々が「明日からは外国人」と切り捨てられた日でもある。
 平和条約調印と同時に日米安保条約も署名され、翌年の4・28付で発効している。それは、「日本が内乱状態となった場合の支援」を口実にしたものだったが1950年6月に始まった朝鮮戦争など、条約締結当時の状況にも強く影響された。実質的には、米軍単独の占領継続を条件にした独立だった。
 アメリカはソ連、中国を睨んで日本を1日も早く基地化したかった。
 朝鮮戦争は1953年7月に休戦したが、約60年を経過した今も休戦状態が続いている。(北朝鮮は最近休戦破棄を発信したとも言われているが。)
 日本の国情は次第に安定したが、海外の脅威を過剰に意識して、安保改定の必要性を当時の与党が言い始めた。これは極東進出を目論む米国の考えとも一致し、世論の反対も届かず1960年6月23日新安保条約が発効した。
 この第6条に「米軍は日本における施設、区域の使用を認められ、日本がこれを無償で提供する義務を負う」と定めた。日本の安全と極東の平和を維持するという名目での片務協約だった。
 日本国中を米軍が思い通りに使用できる様にした60年安保は、安倍総理の祖父である、岸信介が政治生命を賭して成立させた。
 10年後の1970年以降は、手続き的には、日米いずれかが1年前に予告すれば一方的に破棄できることになっている。究極の脅しとして、アメリカ側からの一方的破棄予告もありうる。
 日米軍事同盟強化の必要性を日本政府が強調する時は、そんな脅しがそれとなくかけられているかも知れない。
 4・28は安保維持のために諸々の制約を設けられた沖縄県のいつ果てるとも知れない犠牲が生じた日でもある。沖縄では「屈辱の日」としている。
 さて、1990年5月24日、韓国の慮泰愚大統領が公式来日した折の宮中晩餐会での天皇陛下のお言葉を引用させていただく。
 「朝鮮半島と我が国は、古来、最も近い隣人として密接な交流を行ってきました。我が国が国を閉ざしていた江戸時代においても、我が国は貴国の使節を絶えることなくお迎えし、朝野をあげて歓迎いたしました。しかしながら、このような朝鮮半島と我が国との長く豊かな交流の歴史を振り返るとき、昭和天皇が『今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならない』と述べられたことを思い起こします。我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、私は痛惜の念を禁じえません」と述べられた。
 翌日、韓国人記者との会見で、慮大統領は「これで過去の核心問題は解決した」と応じている。人間天皇としてのセンシティビティに溢れる気持ちが伝わってくる。
 住宅が密集する普天間は、少なくとも今後10年位は、オスプレイの危険と騒音に苦しめられることが明らかになった。
 安倍総理はそんなことはおかまいなしで政府主催で「主権回復の日」の式典を行いたいとのこと。主権回復どころか、「主権の一部を放棄した日」ではないだろうか。改訂すべきは憲法以前にまずは安保の片務協約ではないのか。
 式典には天皇の臨席を仰ぎたいとのことだが、何とセンシティビティを欠いた言動かと筆者には思える。