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総合取引所と指田義雄〜分権化で繁栄実現
市場経済研究所 鍋島 高明
 日本で最初に総合取引所構想を掲げ、実践したのは指田義雄である。大正5年株式会社東京米穀商品取引所(東米商)の理事長に就任するや折からの欧州大戦景気を背景に積極的な市場拡大策を次々に打ち出す。石田朗氏の「戦前の理事長」による。
 「指田理事長は就任当初から、取引所の総合化に対してはきわめて意欲的で、まず当時有名無実となっていた綿糸市場の更正復活に着手し、綿糸布問屋の集中する堀留町界隈に新たな立会場を設ける方針のもと大正6年に第二部杉之森市場を開設した。さらに小麦や大豆粕についても新立会場の開設を計画し、同9年に深川佐賀町に第三部佐賀町市場を設けた。こうして当初から米穀を取り扱っていた蛎殻町の第一部市場に、新設二市場を加えて、一つの取引所として三つの立会場を総括する世界的にも珍しい総合取引所が成立した」
 指田はさらに生糸市場もその傘下に置こうとして、生糸を上場する横浜取引所の株買収に乗り出す。株取得の進行中、横浜で伝統を誇る地場業者から蛎殻町の連中の下座に座れるかと、猛反対に遭う。当時の横浜取引所は生糸相場の全盛期であり、東米商の軍門に降るなどとんでもない、と鼻息は荒かった。
 さらに指田は砂糖の上場も企画した。指田は大日本製糖の大株主であるとともに役員であったから砂糖市場の開設には熱を入れた。しかし、こちらの方は行政当局に反対された。行政にはかねて会員制の砂糖取引所を設立する構想があったため、指田が描いた第四部、第五部市場は実現できなかった。
 そして石田氏は指摘する。「このように、取引所の総合化ということが、指田理事長の最も重要な業績であるが、彼はさらにその間において、米騒動や関東大震災などの社会的事件や災害をも乗り切り、理事長としての大きな実績を残すことができた」
 指田が理事長に就任した当時の東米商の状況を見ておこう。それは「大樹の下、植物繁茂せず」の状態であった。
 明治41年、ともに蛎殻町にあった東京米穀取引所(コメ)と東京商品取引所(錦糸、大豆粕など)が合併、東米商ができるが、コメの人気が圧倒的で、綿糸や大豆粕などは一向に商いができない。指田は綿糸や大豆粕の市場に喝を入れるための具体策として立会場の分離・独立を決断する。これまでは蛎殻町のコメ市場で綿糸も大豆粕も一緒に売買をしてきた。立会時刻はどうしてもコメ中心になるので、別個の立会場の必要性を痛感したのだ。
 その結果、一部、二部、三部の市場構成となる。言葉のうえでは総合化かも知れないが、実態としては分離・独立によってコメの一極集中を排除しようという戦略である。コメという大樹のもとでは綿糸や大豆粕は繁栄できないとみて、事実上の分社化を図ったのだ。東米商のトップは理事長の指田義雄だが、一部、二部、三部を担当する三人の常務がそれぞれの市場の采配をふるう。権限の移譲策である。今から100年前に実行した指田の裁断は示唆に富む。
 近年盛んに総合取引所構想がいわれる。特に金融庁はなにがなんでもという意気込みだが、商品先物市場を活性化させる手段としては逆効果のように思えてならない。江崎格東京商品取引所社長が「商品先物市場の隆盛をもたらすか、どうかを見極めたい」という姿勢は、当然である。筆者は、総合化によって商品の市場価値が減価することを恐れるものである。
 学者や若手官僚がいう商品先物市場に活力を蘇らせるための総合取引所など絵空事のように思えてならない。加えて、商品先物市場をもっぱら資産運用面からとらえ、産業インフラの面から論じられない点にも大いに違和感がある。くどいようだが、指田義雄が行った取引所の総合化は、実は三市場への権限移譲という、いわば分権化によって成功を収めたことを忘れてはならない。
 明治このかた、「米、株並び立たず」といわれて久しい。明治26年、株も商品の先物取引も一本の「取引所法」によって運営されることになるが、株とコメに代表される商品とは水と油である。株価は企業業績に直結し、商品価格は台所経済を直撃する。商品価格には生産原価というモノ指しがあり、世界市場と連動するが、株価には目安となる原価もなければ世界市場との比価もできない。
 米穀取引所に株を上場して、米穀株式取引所も沢山できたし、株式取引所に米穀を上場して株式米穀取引所も各地に数多く誕生した。しかし、株と商品が「ウィン・ウィン」の関係に進む例はほとんどない。一方が繁茂すれば、他方は枯れ果てる。それは歴史が証明済みである。
 指田義雄がいま商品先物業界のリーダーとして登場したとして、株も為替も商品も一緒になれなどとは絶対にいわないだろう。指田は一市場制を三市場制に分割して成功したのであって、三市場を一本化することの弊害をいやというほど知っているのだ。
 総合取引所、グローバル化が呪文のように唱えられている。かつて全国に20あった商品取引所が2つに集約される中で、市場はどのように栄えて来たか。それは繁栄の歴史ではなく、日本商品先物会社の衰亡史ではなかったか。効率化を追い求める余り、失ったものが余りにも多い。
 指田義雄が采配をふるった10年は商品先物の黄金期となった。総合化という名の分権化によって各市場が栄えた。指田は後に藤山雷太の後を受けて東京商業会議所会頭に就任するが、「銀行卜取引所ノ働キハ経済界ニ欠クベカザル枢要ナル鍵ヲ握リ居ルモノ」と述べている。見識のひとだった。