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コメの価格と先物市場政策
杉江 雅彦
 政府は大阪堂島商品取引所に試験上場中のコメ先物取引について、あと2年間延長することを認めた。選択肢は@上場廃止、A本上場へ移行、B試験上場の延長、の3つにひとつだったが、結局はBの試験上場延長に落ち着いた。このことはある程度予想されてはいたが、農林水産省は最も無難な道を選んだことになる。
 本上場に移れなかったのは、試験上場開始当初から売買高がすくなく、この2年間に売買高が大幅に伸びることがなかったことが大きい。それでも試験上場の延長に踏み切ったのは、TPP(環太平洋経済連携協定)への参加にともない、コメの価格指標が必要になること、またコメの卸売業界に先物取引への参加意欲が見られはじめたことなどを斟酌したためだと思われる。しかし、もしコメ先物が東京商品取引所に上場されたままだったとしたら、あるいは上場廃止になったのではなかろうか。これは私の深読みであるが。
 さて本論に移って、今回はコメ価格の視点から先物市場政策について考えてみたい。
 商品先物の上場問題はすぐれて政治的であるといえそうである。歴史的にみても、いまから3世紀近く前に大坂堂島で米会所(取引所のこと)が公認されたこと自体、政治が大きくかかわっていた。17世紀後半から自然発生したコメの先物市場は、元禄時代には巷間“淀屋米市”と呼ばれる一大市場に成長したが、徳川幕府はその当初から執拗に反対し、徹底して弾圧し続けた。その理由が面白い。
 第1に「先物取引は賭博同然の悪だ」というのはまだ首肯できる面もあるが、第2の理由である「コメの先物取引は米価を吊り上げる」との幕府の認識は、明らかに非論理的な誤解に過ぎない。江戸時代に入って武士も町人もコメを主食にする慣習が根付いていたから、幕府はつねに低価格安定を米価政策の基本に据えていた。したがって、淀屋米市が弾圧の標的にされたのである。その頂点になる大事件が、自邸をコメの仲買人達による先物取引の会所に提供していた大坂一の米商人淀屋の五代目当主・辰五郎夫妻の大坂追放と全財産没収であった。
 ところが8代将軍吉宗の治世下になって、幕府の米価政策は180度の転換を遂げた。その最大の理由は、コメの豊作が続き米価の低落傾向が著しくなったことである。米価の下落は各藩の財政に重大な影響を及ぼしただけでなく、幕府のお膝元の台所にも由々しい状態をもたらさずにはおかなかった。笑止なのは、米価引き上げ政策の一環としてコメの先物取引を容認緩和する政策を推進したことである。その延長線上で1730年の堂島米会所の公認が実現したが、それでも米価は上がることがなかった。それも道理である。コメの需給関係が緩んでいるのに米価が上昇することは論理的に有り得ないからだ。このあと幕府は大商人に命じて買い米・囲い米を繰り返し、ようやく米価の安定を得たという。
 ここでいきなり現代に飛ぶが、歴代政府は米価の高値安定を政策の基礎にして農業政策を推進してきた。とくに食糧管理法時代には生産者米価を政治的に決定し続けてきたため、国際水準よりもはるかに高い米価を生む原因を作った。いまコメの価格は自由になり政府が直接に手を下すことはないが、政府の代わりにその任を果たしているのが全農(全国農業協同組合連合会)であり、その象徴ともいうべきものが「相対価格」であるといってよかろう。最近では東日本大震災後のコメ不足を見込んで、11年、12年産米の相対価格が高めに決定された。しかし予想に反して豊作が続き消費者のコメ離れも加わって、流通在庫も増加し、卸間取引価格は低下傾向にある。全農も13年産米の相対価格を低めに設定せざるをえないだろう。いまもって全農が頑なにコメの先物市場に抵抗し続けているのは、ひょっとするとコメの先物取引が米価を引き下げる働きをすると信じているからなのかも知れない。
 もっとも、近代経済学の開祖といわれるアダム・スミスが、堂島米会所の開設から46年後の1776年に著した『国富論』の中で、「穀物取引ほど法律で十分に保護するに値する取引はなく、また保護を必要としている取引はないそれは穀物取引ほど憎悪の対象になる取引はないからだ」(山岡洋一訳による)と述べていることをどう現代的に解釈すべきなのか。いまでも私を悩ましている難問のひとつである。
※桃色箇所は10月7日訂正