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橋本喜作の投機礼讃〜ハマイト名物記者ほえる
市場経済研究所 鍋島 高明
 橋本喜作はもと大阪毎日新聞の経済記者である。「奇策」というペンネームで相場の神髄をついた記事を書く。明治末年、欧米視察から帰国した野村證券の始祖、野村徳七は調査部を充実させたいと考え、橋本記者をスカウトする。野村徳七伝にこう記されている。
 「野村氏は元来人気本位に基づく株の売買を排斥し、株の売買はよろしく科学的根拠に立つべきものであるとし、それを実践化するために率先して不完全ながらも調査部なるものを設け、そのためわざわざ橋本奇策氏を迎えた」
 こうして“調査の野村”が動き出す。初めは新聞、雑誌に掲載する広告の文書作りだったが、情報の収集、整理、分析が調査部の仕事となる。野村徳七が調査部に命じた一節に「調査上参考トナルベキ記事一切ヲ切抜キ、各分類シ張抜帖ヲ作ルベシ」とある。新聞雑誌の切り抜き、スクラップブックの作成から始まる。そして野村総合研究所へと発展していく。
 翻って、わがCX界の調査部の現状をみると、なんとも寒々しい。調査部の看板を掲げている会社が何社あるか。かつてCX界の調査部会が盛んだったころ、東穀大会議室を使っての勉強会は結構大物講師も出演していた。安いギャラでどうやって説得したのか、不思議に思ったものだ。講師たちは商品先物にうさんくささを感じながらも若者たちの熱意と目の輝きに心を動かされ、ひと肌脱いでくれたのだろう。かつて日商協の一角に先物経済研究所の萌芽のようなものはあった。木原大輔氏の名刺にそういう組織名が記されてあったように記憶する。あれでも誕生しておれば今日のような調査部不況時に役立つことだろうに。
 さて、橋本喜作は後に野村グループの大阪屋商店専務となるが、大正14年創刊の「取引所研究」という雑誌で「投機礼讃」をぶち上げる。90年たった今も色あせない。
 「世間にはおれは投機師ではない、実業家だなどと偉そうにしているものもあるが、おかしくてならない。実業家でも、政治家でも、軍人でも、機を逸するようなことばかりしておった口には、政治家なら国政を誤り、軍人なら戦争に負け、実業家なら損失ばかり続けていく、世にも可憐な、そして世にも不必要な人間である。何事にも機を見ること敏にして捷、そしてこれを実行する勇気を持つことが肝心である。投機ほど世の中に必要なものはない。禅にも『機に投ず』という語があるが、悟りを開くということも、この機に投ずるということである」
 投機心を持たない人を「可憐」とはいささか妙だが、「世に不必要な人間」とバッサリ切り捨てるのは得庵・野村徳七譲りか。そして、喜作は、平泰盛の娘、千代尼という美女を登場させる。千代尼が夜桶に水を汲んで手に提げ、いただこうとした時、桶の底が抜けた。この瞬間に千代尼は悟り、一首を即吟する。
 「千代の尼が頂く桶の底ぬけて 水たまらねば月も宿らじ」
 水があってこそ月もその影を宿すことができる。「人間という器にあらゆる欲念、執着、妄念があっては、仏が宿る場所がない。こうした妄執の念慮を捨ててしまってこそ仏は宿ると大悟徹底した」
 そして、喜作の投機礼讃はボルテージを上げる。剛胆徳七が三顧の礼を尽くして迎えただけに迫力がある。 「機を見て仕事をするということほど世の中のすべてに適用して必要なことは外にない。この必要欠くべからざる投機を賤劣祝するような思想を世の中の人から速やかに取り去ってしまいたい。投機を軽蔑するが故に日本は発達しない。日本はすべての方面において不振の幕から脱出することができない。いつでも世の中に後れを取ることになる」
 橋本は「投機心なき者は去れ」といいたいのだ。アベノミクスの功用のひとつに眠れる投機心を揺り動かした点は率直に評価していいように思う。
 橋本喜作が所属した大阪毎日新聞のカウンターパートナー、東京日日新聞にも凄い経済記者がいた。横浜生糸市場を担当する一戸正候記者は「通俗生糸取引講和」と題する本を出し、その前文でこうほえる。
 「生糸取引に無関心な一般経済人の適切な指針となすばかりでなく、竿頭一歩を進めて当業者の眼裏にひそむちりを払って悟りの光明を与え、道を問わずに迷っている者に清算取引の利用を説いて一利を興し、一害を除き、倒行逆施(よこがみ破り)を一掃するのが轍鮒(てつふ)の急であり、蚕糸業者にとっては起死回生の妙薬…」
 これだけの自信と自己宣伝は聞いていて爽快である。橋本と同様に、投機に対する誤った認識を払拭させたい一心で書いたことが伝わってくる。
 「清算取引を利用する経済人はまるで罪悪でも犯しているように思ったり、思われたりしたもので、世間から忌避される傾きがあった。しかし、いくたびか経済界の死線を越えたので、こうした人々にも初めて自分たちの無智であったことを覚り…取引所が唯一無二の保険機関でもあれば、投機的利用所でもあることを発見し、コロンブスが米大陸を発見したよりももっと喜んだ連中さえある」
 一戸記者はハマイト全盛期の名物記者であった。小島周商店の場立ちを長く努めた式村義介によると、「眼光ケイケイ、うっかりしたことを言おうものなら、どんな大物でも食ってかかり、買収策など弄するとかえってスッパ抜くという風でしたね」と語っている。
 豪気な市場には豪気な記者が生まれる。