第 388回
特別・最終号
387回  ………
米良 周              
 1936年、旧満州新京市生まれ60年早大第一政経学部卒、同年日本経済新聞社入社。73年商品部次長、78年編集委員を経て、94年より日経産業消費研究所首席研究員、96年日本経済新聞社退社。
 先物ジャーナル社・代表取締役。09年同社退社
著書としては「日経商品面の読み方」(78年)「商品先物取引入門(95年)が、訳書として「金ー21世紀への展望」(88年)。近著(08年6月)「商品先物取引の手引き」(同友館刊)がある。
 2012年2月22日、逝去、享年76才。

追悼 米良 周さん
  
弔 辞
 米良周さん。つい10日ほど前、あなたは、1月に逢った時より、顔色もよくなって、甘いものも口にされ、回復の方向にあるように見えました。
 それが、こんなに、急に、変わられてしまって──言葉もありません。
 ずいぶん長い付き合いでした。
 あなたが日本経済新聞社に入社され、当時、ボクのいた編集局市場部に配属されて来た時から、もう52年になります。
 あの頃、証券・商品ひっくるめて、全部の取引所を担当していた市場部は、その後、組織改革で解体され、二人とも、新しい商品部へ移りました。しばらくして米良さんは工業部、名古屋支社と、広い取材経験を積まれたあと、商品部次長、編集委員、そして産業消費研究所主席研究員として活躍されました。
 いつも片手にタバコを持って、優しい笑顔で話しながら、時に、歯に衣着せぬ鋭い言葉を投げつける。そんなときの、眼鏡の奥の、あなたのまなざしは、実に魅力的でした。
 平成8年に日経を定年で辞められた後は『先物ジャーナル社』を引き受けられ、「めらの目」と名づけたご自身の執筆覧は、名物コラムになりました。「めらの目」の主、米良さんは特に、先物業界の次代を担う若い人たちの間で人望が厚かったと聞きます。
 その「めらの目」が去年の11月から掲載されなくなり、みんな、いぶかっていました。米良さんが検査入院されたと知って、年が明けてまもなく、病室を訪ねたら、あなたは不自由なベッドの中で、ファイナンシャル・タイムスを読んでいた。時々、原稿も書きすすめている、とも伺いました。
 また、このあいだは「取り寄せて見たけど、よく判らない。秋山さん、読んでみて」──と、分厚い新刊書をお土産に下さった。開いてみたら、日本のマスコミの取材の現状を批判した本でした。
 あなたは常に広い視野を持ち続け、最後の最後まで、ペンを手から離さなかった、素晴らしいジャーナリストでした。ご家族や我々にとってだけでなく、今、先の見えにくい先物業界にとっても、かけがえのない宝でした。
 僕たちは一緒に仕事をしながら、よく議論をし、また、よく飲みました。
 米良さんが名古屋勤務の時には、ボクは一升瓶をぶら下げて、知立の団地まで、泊まりがけで飲みに行ったこともありましたね。
 また都内の居酒屋で、飲むにつれ酔うにつれ、肩を組んでお互いに支え合うようになっても、まだ飲み足らず、「結論は、うちへ行ってからだ」と、埼玉県の桶川に住むボクのねぐらにまで、深夜、おいで頂いたことも、何回もあった。
 時にはご家族もご一緒に、賑やかにやったこともありました。
 このあいだ、帰り際に「早く退院して、また桶川においでよ」と言ったら「桶川パーティー? 盛大にやろうね──」と、あの、とろけるような笑顔を見せてくれたのが、まぶたに焼き付いています。
 でも、それは、もう、叶わない約束になりました。
 米良さん、今度は、そっちで、やることにしよう。
 そのうち、ボクも行くから、それまで、ゆっくり、休んでいて下さい。
平成24年2月22日
秋山 有世


 米良さん。私は今、貴方に最後にお会いした時の光景を思い浮かべています。1月9日の午後病室で横になったまま、あなたはファイナンシャル・タイムス、エコノミスト、日本経済新聞、週刊誌、そして英語の辞書をそろえ、「ああ退屈だ」と、盛んに退屈を連発していました。そこにペンと原稿用紙があればたちどころに長期連載コラム「めらの目」を書き上げたことでしょう。そう思われるほどの気力を感じました。
 つやつやした顔色。「昨日は久しぶりに風呂に入った。気持ちいいね」と介護の手を借りながらも入浴できたことがさも嬉しい出来事であったかのようでした。しかし、上半身を持ち上げるだけの体力は失われていました。話の中で時々腑に落ちない言葉を発するのは薬のせいだったかもしれません。「早くめらの目を復活してよ」「うん、書くよ。書くよ」といったのが私が聞いた米良さんの最後の言葉でした。
 米良さんと私は日経入社は一年違いですが、同じ昭和11年のねずみ年生まれで、駆け出しのころは同じ部署でした。もう五十年も前のことですが、商品部という商品市況を取材する部でした。
 当時米良さんは日経の人気コラム「糸へん日記」や「三面鏡」を担当していましたが、それはだれもが舌を巻く名文でした。だれ言うとなく「米良調」という言葉が生まれたのはそのころです。だれもまねのできない名調子で、それを実にさりげなく書き上げるのは、どういう頭脳構造になっているのだろうか、とただただあきれるばかりでした。
 若手記者の目には鬼のように怖かった名物デスクもあなたの原稿だけはフリーパスで「米良ちゃん、米良ちゃん」と云って目を細めていました。鬼デスクも米良節の虜になっていたのです。米良さんがある部長のゴーストライターを務めていたことを知るのは、ずっと後のことですが、さもありなん、と納得しました。
 米良さんの筆力は部内の話題にとどまらず、社外でも評価され、アルバイト原稿の注文も増えてきます。アルバイト原稿の多い記者ほど力量のある記者とされた時代でした。貴方は社外からの依頼原稿の最も多い記者の一人であったと思われます。後に私が手元流動性の低下で、貴方に融資を頼むと、預金通帳をポンと差し出し、助けてくれました。そこには多額の原稿料が振り込まれていました。そうした無造作、無頓着さは貴方の持ち味でもありました。
 冴えわたる原稿のリズム感と同時に天性の人間力こそ米良さんの神髄であると確信します。有り余るほどの知力を持っていながら、それを見せびらかすことのないつつましさ、すべてに控えめで、自己宣伝を嫌いました。出しゃばることは半世紀にわたるお付き合いで、一度だって見かけたことはありませんでした。その代わり、驕れる者には痛烈な皮肉の一刺が待ち構えています。決して円満居士ではありません。
 東日本大震災の後で、被災地への寄付のことが話題になった席で、貴方はさりげなくその金額をいわれました。その場は一瞬声を失いかけました。その場に居合わせただれよりも多い金額ではなかったかと思われます。私はその半分もしていませんでした。私は負けたまま今日に至っております。
 貴方は商品部から工業部に移り、名古屋に転勤になり、そろそろデスクに昇格する年代になっていました。私は当時の部長の命を受け、名古屋に出掛けました。部長の意図は「米良君を来春商品部のデスクにしたいが、本人とその周辺の空気を調べてこい」というものでした。その時米良さんは商品部に帰る意思はあるように見受けました。
 なんでもこなせる力を持っていながらも商品という自由なマーケットを志向しているように感じました。ただ名古屋の報道部長は貴方のポストについては別の構想をもっているように思われました。その後、部長間でどのような応酬があったかは知る由もありませんが、翌年春には商品部のデスクとして向かい合わせに座ることになりました。以来40年、米良さんと私は同じようなコースをたどって今日に及んでいます。
 米良さん、あなたはよく飲み、よく吸い、よく読み、よく書きました。貴方がこよなく愛した商品先物市場はいま存亡の岐路に立たされています。しかし、あなたがよくいわれるように、先物という日本人の叡智が編み出したシステムは不滅です。その点はご安心ください。貴方はこれから黄泉の国に旅立たれます。だが、そこは貴方にとって決して寂しい世界ではないはずです。
 そこには貴方が最も敬愛した東工取の元理事長、間淵直三さんがいます。「よう、米良ちゃん」と早速歓迎の宴を張ってくれるでしょう。そして知性の塊のような元三菱商事フューチャーズ社長の風間信一さんがいます。どうか、知的会話を楽しんでください。また貴方を敬慕する元市場経済研究所専務の中村豊吉さんも貴方との再会を心待ちにしている一人でしょう。住友商事OBの園田征次さんがいます。貴方が師と仰ぐ相場記者岩本巌さんがいます。
 地上は一人去り、二人去りして段々さびしくなっていきますが、逆比例して天上は賑わいを増していくでしょう。
 私は今、月に一回貴方の主宰する先物ジャーナル紙に原稿を書かせてもらっています。しかし、弔辞を書いたことはありません。これが弔辞になっているかどうか、大変気になるところですが、初めての原稿に免じてお許しください。
 ではさようなら、米良さん、またお会いする日まで。
平成24年2月23日
鍋島 高明